2013年9月28日土曜日

ブログ書評 第17回 『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』



こんばんは。秋山です。
今回紹介する本は金子哲雄著『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』(小学館)です。

著者である流通ジャーナリストの金子哲雄さんは、2012102日肺カルチノイドのために、この世を去りました。著者は20116月に前述の病名を宣告され、「今すぐ亡くなったとしても、驚きません」と医者から説明されました。この本は金子哲雄さんが余命宣告からこの世を去るまでの約500日をどう生きたかを綴っています。

この本は前半で発病前まで著者がどう生きてきたか、後半で発病後、病気とどう付き合って生きていったかが語られています。前半では流通ジャーナリスト・金子哲雄がどう誕生したかが語られています。学生時代や家庭での経験から将来のビジョンを描く様や、日々の地道な調査活動から、テレビで見かけた、一見軽そうな言動の裏に確かな土台があったことが読み取れます。エピソードの中にはちょっと大胆な行動もあり、著者の自分の仕事に対する自信がうかがえます。

後半では発病後、仕事と闘病を両立しながら生きていく姿が語られています。発病発覚後、著者の病気の進行具合によって彼の心境が変化していきます。私は主に三段階に分けらていると思いました。まず治療方法を模索しながら病気と付き合っていく段階、次に病状が悪化し、思うように仕事ができなくなっていく段階、そして2012822日危篤に陥り、本格的に死に直面する段階があります。病気が進行する中で、著者は著者らしい筋の通った生き方をしていきます。特に8月22日以降の著者の生き方は、是非本書を手にとって読んでいただきたいと思います。私はこの本を読んで、著者の生き方が羨ましくなりました。

また、著者は在宅医療や自分の葬式のプロデュースをしています。死ぬまで付き合っていかなければならない病との付き合い方や、自分の死後のに対する考察は普段しないでしょう。しかし終末医療は多くの人が、葬式にいたってはほぼすべての人が必ず直面する問題です。いまのうちに実際経験した人の著作を読むことはより良く生きるのにプラスになると考えます。

私達はいつか必ず死にます。本書の金子哲雄さんの生き方に触れて、自身の死に方・生き方を一度みつめてみませんか。

2013年9月16日月曜日

ブログ書評 第16回 『「待つ」ということ』

 ごきげんいかがですか、スズキです。

 私の3回目となる今回は、『「待つ」ということ』(鷲田清一、角川選書、2006年)を紹介いたします。




 この本を通して考えさせられるのは、「待たなくてよい社会、待つことができない社会の到来によって、私(たち)は何を得、何を失った(あるいは失い行く)のか」ということです。

 たしかに得たものもあると思います。たとえば、携帯電話を使った待ち合わせでは、携帯電話のおかげで両者は待つ(待たせる)時間を正確に把握できるようになり、待たせる方は相手に心配をかけなくて済む安心が生まれ、待つ方も約束までの空白の時間を効率よく使えるようになりました。別の例をあげれば、子の出産でもそう。待たずとも、性が判り、顔がほのかにわかり、遺伝子までわかるようになりました。可処分的時間の増加、安心、そして近未来を得られるようになったことには、一定の意義があるでしょう。

 しかし、ある大切なものも失いつつあるのではないか。待つことで生じる「豊かな感情・自分だけの繊細な感情」を失いかけているのではないでしょうか。
期待や不安も、焦れや絶望も、「待つ」ことがなければそれらを抱くこともない。そうして平板になった生活に人間らしさや面白さを見出すことは出来るのだろうか。感情の乏しい、つまらない生活を送っていて我々は平気でいられるのでしょうか。
 「負の感情を見出すとツラいから、そういうのが出やすい『待つ』ということはしたくない。すぐに物事が進んでほしい。」という意見もあるかと思います。たしかに、「待つ」時は期待感などプラスの感情だけでなく、不安やイラつきなど負の感情も起こります(最近では、いつまでも青に変わらず進めない信号にイラつく自分がいたり、ドライブスルーにて先に3台車があるのを見ただけでイラつく知人がいたり…)し、後者の方が長きにわたり残りやすく、毎日が重く苦しいものになるのも確かです。
 でも、マイナスな感情があってはじめてプラスも光るのではないでしょうか。プラスを光らせるためには、少なからず、マイナスなものにも目を向ける必要が出てくるのではないでしょうか。その契機として、「待つ」ということに意味が出てくるのではないでしょうか。


 本書は、待つときに生じる感情の姿に徹底して向き合った記録です。書物から、認知症治療や精神医学など相手の言葉をひたすら「待つ」医療の現場から、「待つこと」とは一体どういう状態なのか、そのとき人は何を思い、何を感じるのかについて思考を広げた本であります。スパッと「こうしよう」実践的な事柄が羅列してあるものではありませんが、「待つ」ことに対し何か気になることがあった方にはもちろん、きめ細かい感情や人間らしさを追求する方にも特に推薦したいと思います。

2013年9月7日土曜日

ブログ書評第15回『昭和天皇―「理性の君主」の孤独』

ブログ書評、3回めの登場の荒戸です。
私は夏休みには戦争に関する本を一冊読むことにしています。
今年は古川隆久著『昭和天皇―「理性の君主」の孤独』を読みました。今回はこれを紹介します。


私が小学生のころまでは昭和でしたので、昭和天皇のお姿はおぼろげながら記憶にあります。私の昭和天皇に対するイメージは一言で言って『優しそうだけど少し寂しそうなおじいちゃん』なのですが、大人になるにつれて、昭和天皇に対する印象が人によって様々であることを私は知ることになります。それらは、私の素朴なイメージとは明らかにかけ離れたものでした。

確かに、学校で歴史を学ぶ中で、なぜこんなに優しそうな方が治めている国があのような戦争に突き進んでいったのか、それは昭和天皇自身が若い頃は私の知る昭和天皇とは違っていたからなのか、不思議に思っていた記憶があります。

戦争は多くの人々に計り知れない影響を与えるので、その当事者である昭和天皇に対して人々がどのような印象を持つのかというのは、その人がどの時代を生きたかということによって違ってくると思います。本によって昭和天皇の描かれ方が異なっているのもそれが一つの原因なのかもしれません。

この本は、そのような人によるイメージの違いをなるべく除いて、近年多く出てきた資料に基づいて昭和天皇の実像に迫ろうとした本で、2011年のサントリー学芸賞を受賞しています。

著者はこの本で、皇太子時代の若き昭和天皇がヨーロッパ訪問でイギリスの民主的な立憲君主制に感銘を受け、その日本での実現を理想としていたこと、また、戦争を避け、早期に終了させたいと考えており、また何度かそのチャンスがあったにもかかわらず、そのような民主的な立憲君主制への理想を持ちそれにこだわっていたがゆえに、戦争を止めきれなかった、長引かせてしまったことが描かれています。昭和天皇は戦争を止める力を持っていたかもしれませんが、それを自らの力で行うことは、彼が理想としていたリベラルな政治体制を自分で否定することになるというジレンマに直面していたことが、この本から読み取ることができます。

この本の主題は戦前から戦中の昭和天皇を描くことですが、戦後の昭和天皇についても描かれています。昭和天皇が目指したリベラルな政治体制は、戦後(昭和天皇が主導したかどうかはさておき)憲法に体現されることになるわけですが、その後の昭和天皇は、そのリベラルな政治体制が(不完全な形にせよ)実現されることと引き換えに失われた、もう取り戻せないものに対してどう行動していくか、一言で言えば「戦争責任」というものをどのように考え、行動していったのか、この本はなるべく主観を排して資料に基づいて書かれています。

私は、この後半の記述に心を奪われ、涙なしでは読むことができませんでした。人はどうしても生きていく中でもう取り戻せないものを作ってしまい、それについて責めを受け続けることが多かれ少なかれあると思います。昭和天皇は、誰よりも大きなそれを背負いながら逃げずに生きてきた人間であることが、この本の記述が冷静なものであるがゆえに鮮明に浮かび上がってきます。

自分の意思とは必ずしも言えないがやってしまったこと、自分のせいだけではなくても人のせいにできないことを背負って生きるとはどういうことなのか、どう生きるべきなのか、それと対峙し続けた結果が、私が昭和の終わりに見た「優しそうだけど少し寂しそうなおじいちゃん」であったということを、この本を通じて知ることができました。

私たちも生きていく中で少しずつ社会とのつながりにがんじがらめになっていき、自分の意志とは必ずしも一致しない行動を迫られ、その結果窮地に立たされることが少なからずあり得る世の中に生きていますが、その中でどう生きていくのか、この本はそれに対する一つの指針を与えてくれる本であると思います。